歩いて147時間、神戸市から熊本佐敷まで歩いた祖父の話

Googleマップで神戸市役所から熊本県の佐敷城跡まで歩いた場合を検索してみました。
休憩なしで147時間、6日かかるそうです。
1945年8月、私の母方の祖父が一人この道を歩きました。

神戸市の造船所で働いていた祖父(当時40歳)ですが、1945年3月に激しい空襲があり、祖母(当時35歳)は母(当時14歳)と叔父叔母を連れて熊本県の佐敷に疎開しました。
一人で神戸に残った祖父は……ちゃっかり彼女を作って面倒を見てもらっていた!

背は低いけど顔だけはよかった祖父は、人たらしの性格も手伝ってかなりのモテ男だったらしいのです。本来とても情の深い祖母が熊本の実家に帰ろうと決心したのは「愛想が尽きました」的な意味も含まれていたんでしょう。熊本行きの汽車に揺られながら母は「もう父ちゃんには会えないかもしれない」とうっすら予想していたそうです。

それから月日が経ち、終戦まであと数日というある日、真っ黒でボロボロの服の男が祖母たちの住む家を訪れました。応対に出た祖母が「ギャッ!」と叫んだそうです。祖父でした。

空襲で造船所どころか神戸市そのものが壊滅状態になり、身を寄せていた彼女宅からも追い出されてしまった祖父は、「俺も熊本に行こう!」と神戸市から線路を辿ってテクテクと歩みを開始。
途中、広島あたりの線路が瓦礫で埋もれて足の踏み場がなく、瓦礫を端に放り投げては道を作り、また投げては進み、をひたすら繰り返したそうなんです。

私はこの話を聞いたとき「それって原爆の瓦礫なんじゃないの?」と母に聞き返しました。母は少し考えて「たぶん」と答えました。
なんぼノリが軽い祖父でも、広島に異様な爆弾が落ちたと知っていれば線路で熊本に行こうとは考えなかったでしょう。たまたま直撃の被害を受けなかったけれど、瓦礫の上を歩いたことで被ばくはしたんじゃないかと思うんです。

それから何年か後に、相変わらず放蕩三昧の祖父に呆れた母が「父ちゃんもっとしっかりして」と詰め寄ったことがあったそうです。祖父は「遊べなくなったら俺がかわいそうじゃ!」と父親らしからぬ反抗的な態度をとったため、「こんなことなら神戸で永遠におさらばしとけばよかった」と母も祖母もうんざりしたそうです。

ところがその晩、祖父は腹部の皮膚から大出血! 特に怪我したわけでもなく原因不明。「ほら見ろ罰があたった」と家族みんなで冷笑したそうなんですが(-_-;)、今考えると放射能の影響だったかもしれませんね。

祖父は生まれた時代が悪すぎてどこかでネジが数本取れてしまったようです。それでも、終戦直前の焦土の道を命がけで熊本まで歩きました。今はすでに亡くなって事実を確かめることはできませんが、家族を大切に思う気持ちはちゃんとあったと信じたい。孫の切なる願いです。